日本民藝館「棟方志功と柳宗悦」展 感想 2018.03.27

2018年3月に行った日本民藝館「棟方志功と柳宗悦」展の感想メモまとめ。

日本民藝館HPリンク

 

 

〈茶モ道

棄ツル道〉

 

棟方志功さんがまず好きで、見に行こうと思った。

 

飾ってある版画の背景の部分を見ると、かすかに彫刻刀の削り跡が印刷されているところがあって、図像でない部分の白いところにもバキバキパキパキに刀の手が入っているのが分かる。

うねる渦のような刀の跡。

うねる渦が図も地も絵という空間を満たしていて、はじめて棟方志功さんがゴッホを目指していたという理由というか、共通項のようなものを見つけられた気がした。

 

棟方志功さんだけでなく、柳宗悦さんと共に民藝運動に携わっていた陶芸家の作品も一緒に飾ってあった。

河井寛次郎さんの作品、作品自体はあんまり好きじゃないけど、お茶碗など、本当に日光が映える。

濱田庄司さんの作品は、再発見したような気持ちになった。素材の使い方は素朴だけど、陶と釉がお話ししているようでやさしさがある。形の作り方、考え方に重力のことも含まれていて、たぷん、と"包んだ形"だなと思った。

 

何となく、どれが本当・嘘ということはないけど、遊ぶ心がないと、続けていけないのだなと思った。

 

 

そして今までものを作る作家の方ばかり見てたから、柳宗悦さんはどんな人なんだろうと立ち止まって思った。

棟方志功さんとの共同作品のための習作や書、原稿などを見て、かすみのような包容力を持った人だと感じた。

 

特にその書に見つけられたのが、作品を見る側にとっての観賞適切距離に幅があること。広めの浅瀬の海のような感じで、ほどよくピントが合う距離に広めの幅がある。

ちょうど、体を好きに揺らして見れるくらいの幅が意図的に持たせてあるような気がした。

たぶん空気の幅、というものをよく見る人なんだと思った。目で見える、手でさわれるという部分でなく、そういったものによっても柳宗悦さんの"民藝"は形づくられたんだろうな。

この民藝館自体がひとつの大きな器だなあと思った。

 

イメージによって光が形づくられる、

イメージによって影が形づくられる、

イメージによって陰が形づくられる、

のと同じように、そして同じよりも多く、

自然の光・影・陰によって、豊かな形態というのが人に与えられてるんだと思った。自然から発見するもの。

民藝の作品を見てからだと、自然の草木などの見え方も違ってくる気がした。

色に、形に、量に、存在感に。

 

そういう深さ豊かさ、

ハスの花殻の、穴ぼこが笑顔に見えるような

星座に色んな図像を見出すような愉しさ。

 

春の民藝館を歩くのは、泥んこ遊びの楽しさだった。